2021年5月30日日曜日

『三つ編み』 レティシア・コロンバニ(著/文)

レティシア・コロンバニ(著/文)
齋藤 可津子(翻訳)
発行:早川書房

この小説は、とても力強くて、壮大。
インド、カナダ、イタリアの地で、それぞれ苦境におかれた三人の女性が、苦しみに立ち向かっていく様子が描かれている。

3人の状況は、実際に自分に近いというわけではないけど、つらい状況に置かれたときどうするか、という意味では、自分も勇気づけられた。
3人を支えているのは自分の信念で、その信念を支えているものもそれぞれにある(誇りだったり、神だったり、愛だったり。というように見えた)。
信念を持ち、希望を持つことの強さが描かれていた。

社会的に不利な立場にある場合、その立場から脱するためには、すごいエネルギーが要る。
自分が欲するものや、なりたい状態を明確にして、それを手にするための行動を起こす必要がある。
時には他人を説得したり、他人の行動を変えさせたりする必要もある。
ほとんどの場合、誰かが自分のためにそれをやってくれることはないから、不利な立場にある自らが、力をふりしぼって、立ち向かわないと事態は解決し難い。

最近は、これまでそんなに読まなかった海外の文学作品が気になる。
旅行にも行けないからか、身近すぎるものより、違う世界を見たい欲が高まってるのかもしれない。
その時々で、読みたい本が違うのはまったく違うのは面白い。

2021年3月7日日曜日

「よい絵本とは」について考えたこと

 娘に絵本を読んでくる中で、絵本関係の本をたくさん読んだ。その中で、「よい絵本とは」という情報にたくさん出会い、だんだん自分の中での情報の受け取り方が変わってきた。

「よい絵本」という言葉をつかうことに何も感じてなかった(このブログでも特に意識せず過去に使ってた)

「よい絵本とは」という情報に触れて、なんとなく、従わないといけない気になっていた

もっと自由に読んでいいのではと思うようになった

絵本についての考え方は人それぞれだし、価値観によって違うから、自分の価値観と照らし合わせて参考にするかどうか考えたらいいと思うようになった

それでもなお「よい絵本」のフレーズにひっかかるものがあり、さらに考えて、何にひっかかっていたのかわかったので書いておく。

なんの注釈もなく「よい絵本とは〇〇だ」と断定的に語られるとき、「自分にとってのよい絵本」ではなく、誰もが賛成する「よい絵本」という意味を含んでしまう気がする。(実際には誰かが考える「よい絵本」しかないとはと思うけど)
少なくとも私はそのニュアンスを知らず知らず受け取っていて、最初従わないといけない気になってしまったのかなと思った。

実際には、「よい絵本とは〇〇だ」と語られてるときでも、いろんな場合があると思う。

  • ある人や団体が、自分(たち)が価値を感じるのはこういう絵本だ、といいたいとき
  • 歴史的によいと考えられてきたのはこういう絵本だ、とか、多くの人がよいと考えているのはこういう絵本だ、といいたいとき
  • ある範囲や目的の中での「よい絵本」を語っているとき
  • 世の中で「よい絵本」はこうあってほしいこうあるべきだといいたいとき
(もちろん、これは自分の考えに過ぎないとか、説明してくれている場合もある)

これらの場合に何のことわりもなく「よい絵本とは〇〇だ」と語られてたら、説明不足ではあると思う。でも、受け手が↓のようなリテラシーを持てば、問題は起きないと思う。

  • 実際に意味するところ(個人の意見なのか、多数による意見なのか、条件つきなのか、それを推奨してきているのか、など)を理解したうえで、最終的には自分の価値観と照らし合わせて判断する
  • 多くの人が賛成しているかどうかの違いはあっても、一意見であるととらえる
  • 自分が別の意見を持つことも自由だというスタンスで情報を受け取る

ちなみに、以前読んだ『どのような教育が「よい」教育か』(苫野一徳著、講談社、2011)という本ではタイトル通り「よい」教育(制度)について論が進められているが、ここでその議論をしている理由は、教育制度は政策ともからんでいて、その範囲では一つの方向性を設定する必要があるからかなと思う。そこでは、お互いの自由を承認できるための教育がよい教育ではないか、ということを提案していた。

そう考えると、「よい絵本」について、世の中での一つの方向性を設定する必要自体、あんまりないように個人的には思う。たとえば公共図書館で、多くの子どもにとって価値のある本を選書するためにその条件を見極めたいとか、ある教育政策がとられている中でそれにあう絵本をよい絵本として考えたいなど、ある範囲の中で答えを出したい場合はあるだろうけど。それはあくまである範囲の中でのよい絵本に関する考えだと思う。

「よい絵本とは~だ」と言っている=一つの方向性を設定しようとしている、とは限らないけど、「よい絵本とは~だ」という言い方には、それだけでなんとなく、それ以外の意見の存在を受け入れないようなニュアンスがあるように感じる。自分でも使い方に気を付けたいし、断定している言い方が説明不足だったとしても、個人的には、それまでに積み重なってきた知見としては参考になる場合もあるので、それぞれの情報の性格に応じて参考にしていきたい。

なんでこんなことを考えていたたかというと、ひとつは、自分が数ある「よい絵本とは~だ」を読んで、従わないといけない気分になったのが何か嫌だったので理由を考えて再発防止(?)したかったから。ふたつめは、「よい絵本とは」情報をどう頭の中に位置づけて自分がどう考えていったらいいかわからなくなったから。
大学図書館で働いていながらリテラシーが身についてなかったんだなとは思うが、実体験をもってわかったのでいい勉強だったと思うことにする。

2021年2月14日日曜日

【読書の記録】『はじめての哲学的思考』苫野一徳


 







『はじめての哲学的思考』苫野一徳(筑摩書房、2017)

この本は、哲学とは何か、哲学的な考え方がいかに実生活の中で有用か、そしてその具体的な方法について説明しています。

一番印象的だったことは、哲学は意味や価値に関する本質を解き明かす営みである、ということです。意味や価値に関する考え方は人によって異なり(意味や価値は個人の欲望をもとに生まれている)、絶対的な真理はないからこそ、現実の世界ではお互いに納得できる共通の理解に至る必要がある場面があり、哲学はその場面で役立つ、ということでした。

どのように共通の理解に至るのかについては↓のように理解しました。

  • 議論をしようとしている事柄について、まずそれぞれの人がどのようなどのような意見をもっているのか、その意見はどういう価値観に基づいているのかを理解しあう
  • 双方の意見・もとづく価値観を理解しあったうえで、それらの価値観・意見の妥当性をお互いに検討し、双方とも共通で目標とできるような事項へと集約させていく

また、哲学的な考え方を実践する注意点やコツとしては↓の点が紹介されていました。

  • 自分の意味や価値の世界に基づいて、それが人にも当てはまると判断(一般化)しない
  • 建設的な回答が出ないような、「真か偽か」の問いの立て方をしない
  • 自分の価値観だけに基づいて、事実から「〇〇すべき」を導かない
  • 「〇〇せよ」ではなく「どうしたら〇〇できるか?」と考える
  • (↑のようなことをほかの人が行っていないかにも気を付ける)

哲学的思考の実践方法としては、↓が紹介されています。

  • 「哲学対話」(本や映画などの好きな芸術作品について、そのすばらしさを言語化し、お互いに話し合うことで、自他の価値観を再確認し、時に共有できる)
  • 「共通理解志向型対話」(ディベートのように二手に分かれて勝敗を競うのではなく、議論の末にお互いの納得できる結論を導くことを目標とする)
  • 「本質観取」(ある事柄の本質を、複数人で話し合う。事柄の本質は、自らの経験などに基づいて、その特徴や類似事項との違い、意味付けなどから考える。最終的にはその事柄に関する疑問や悩み?の解決について話し合う)

また、複数人での話し合いに限らず、自分個人の問題に関しても、本質を見つめることで解決することがある事例が書かれていました。(自分の考えが欲望に根差していることを自覚し、その欲望を満たすために努力する/あきらめる/欲望を変えるなどの対策をとる)

哲学は、その性格ゆえに、これまでに哲学によって解き明かされてきたことを自分に生かすことでも役立つし、これから何かを議論していく際の手法としても役立つことがわかりました。

なお、本書では教育学に関する事例が多く挙がっています。
たとえば教育学において各論を主張する人が異なる価値観に基づいて主張を行って議論が平行線になってしまう事例や、議論に関わる人の間で語の定義の解釈自体が異なる例、自分の成功例を一般化してしまう例が挙がっていました。

教育学は多くの人に直接的に関係する学問だと思うので、哲学的な立場に根差した建設的な議論が深まってほしいし、情報を享受する側は、哲学の知識を持っておくことでそういった議論の破綻に気づけるなと思いました。