2021年3月7日日曜日

「よい絵本とは」について考えたこと

 娘に絵本を読んでくる中で、絵本関係の本をたくさん読んだ。その中で、「よい絵本とは」という情報にたくさん出会い、だんだん自分の中での情報の受け取り方が変わってきた。

「よい絵本」という言葉をつかうことに何も感じてなかった(このブログでも特に意識せず過去に使ってた)

「よい絵本とは」という情報に触れて、なんとなく、従わないといけない気になっていた

もっと自由に読んでいいのではと思うようになった

絵本についての考え方は人それぞれだし、価値観によって違うから、自分の価値観と照らし合わせて参考にするかどうか考えたらいいと思うようになった

それでもなお「よい絵本」のフレーズにひっかかるものがあり、さらに考えて、何にひっかかっていたのかわかったので書いておく。

なんの注釈もなく「よい絵本とは〇〇だ」と断定的に語られるとき、「自分にとってのよい絵本」ではなく、誰もが賛成する「よい絵本」という意味を含んでしまう気がする。(実際には誰かが考える「よい絵本」しかないとはと思うけど)
少なくとも私はそのニュアンスを知らず知らず受け取っていて、最初従わないといけない気になってしまったのかなと思った。

実際には、「よい絵本とは〇〇だ」と語られてるときでも、いろんな場合があると思う。

  • ある人や団体が、自分(たち)が価値を感じるのはこういう絵本だ、といいたいとき
  • 歴史的によいと考えられてきたのはこういう絵本だ、とか、多くの人がよいと考えているのはこういう絵本だ、といいたいとき
  • ある範囲や目的の中での「よい絵本」を語っているとき
  • 世の中で「よい絵本」はこうあってほしいこうあるべきだといいたいとき
(もちろん、これは自分の考えに過ぎないとか、説明してくれている場合もある)

これらの場合に何のことわりもなく「よい絵本とは〇〇だ」と語られてたら、説明不足ではあると思う。でも、受け手が↓のようなリテラシーを持てば、問題は起きないと思う。

  • 実際に意味するところ(個人の意見なのか、多数による意見なのか、条件つきなのか、それを推奨してきているのか、など)を理解したうえで、最終的には自分の価値観と照らし合わせて判断する
  • 多くの人が賛成しているかどうかの違いはあっても、一意見であるととらえる
  • 自分が別の意見を持つことも自由だというスタンスで情報を受け取る

ちなみに、以前読んだ『どのような教育が「よい」教育か』(苫野一徳著、講談社、2011)という本ではタイトル通り「よい」教育(制度)について論が進められているが、ここでその議論をしている理由は、教育制度は政策ともからんでいて、その範囲では一つの方向性を設定する必要があるからかなと思う。そこでは、お互いの自由を承認できるための教育がよい教育ではないか、ということを提案していた。

そう考えると、「よい絵本」について、世の中での一つの方向性を設定する必要自体、あんまりないように個人的には思う。たとえば公共図書館で、多くの子どもにとって価値のある本を選書するためにその条件を見極めたいとか、ある教育政策がとられている中でそれにあう絵本をよい絵本として考えたいなど、ある範囲の中で答えを出したい場合はあるだろうけど。それはあくまである範囲の中でのよい絵本に関する考えだと思う。

「よい絵本とは~だ」と言っている=一つの方向性を設定しようとしている、とは限らないけど、「よい絵本とは~だ」という言い方には、それだけでなんとなく、それ以外の意見の存在を受け入れないようなニュアンスがあるように感じる。自分でも使い方に気を付けたいし、断定している言い方が説明不足だったとしても、個人的には、それまでに積み重なってきた知見としては参考になる場合もあるので、それぞれの情報の性格に応じて参考にしていきたい。

なんでこんなことを考えていたたかというと、ひとつは、自分が数ある「よい絵本とは~だ」を読んで、従わないといけない気分になったのが何か嫌だったので理由を考えて再発防止(?)したかったから。ふたつめは、「よい絵本とは」情報をどう頭の中に位置づけて自分がどう考えていったらいいかわからなくなったから。
大学図書館で働いていながらリテラシーが身についてなかったんだなとは思うが、実体験をもってわかったのでいい勉強だったと思うことにする。